Erv's Letters index Text by Erv Yamaguchi


『オリンピックはいらない!』とロードレース(3)
2009年10月12日 11:27

 前回のエントリと矛盾すると感じる向きもあるかと思うが、闘争心と闘争心がぶつかり合う格闘技であるK−1や、プロのロードレースの世界においては、私は興行的であっても良いと考えるどころか、どんどんエンターテイメントとして進化して頂いて構わないと考えている。

 例えば、幼少期からの貧困体験をバネにしたエピソードや、家族との絆をネタにした、女性ファンの心を掴んだ“お涙頂戴”的なプロフィールで演出した正義の味方チックな選手がいたかと思えば、そんなエピソードなど歯牙にもかけず相手を罵倒する口汚いヒール役を売名の為に自ら買って出る選手がいたり、そうした選手同士の試合前の舌戦を、ヤラセと分かるところまでさんざんあおったオーガナイザー側の演出も大いに歓迎するし、それに対して両者のワンフー(ファン)が侃々諤々(かんかんがくがく)とやりあうのもいいだろう。

 また、選手が登場する際にドカーンと花火が上がったり、闘争心をかき立てる音楽をかけたり、“ストリートの怒り”を表現したヒップホップを流したり、選手がコワモテ風にタトゥーを入れたりヘンテコな髪型にしたりするのもいいだろう。

 理由は、人生は短いのだから、クソ真面目なことだけを考えるよりも、楽しむべき時には楽しんだ方が良いと思うからである。

 しかし、オリンピックに関しては、開催されることになった国の血税が投入され、その国の医療や福祉ではなく、大規模開発に金が回ってしまうことで、平和とは名ばかりの格差拡大のイベントになってしまうことから、オリンピック招致に反対ではなく、私自身、オリンピック自体に反対というスタンスである。

 同様に、三宅島モーターサイクルフェスティバルもまた、東京都の社会的弱者や、三宅島に未だ帰島出来ない1000人もの在京島民や、半数が老人という島の医療や福祉を犠牲にして、その上で血税を投入するイベントだということで、公道レースが開催されなくても、極論すれば、1ミリもオートバイを動かさない絶対安全なイベントだったとしても、私はこれに絶対反対であり、弱者を切り捨てた上で投入された税金で楽しもうと考える参加者や、これを利用して売名を図る業界関係者に対しては、何度でも「恥を知れ」と言いたいと思う。

 つまり、論点は税金を使うか使わないかの違いである。

 イベントを楽しみたいのなら、“おかみ”に頼らず自分で開催しろ。

★ロードレースとナショナリズム
 私は、いわゆる80年代の空前のロードレースブームの生き残り世代だが、83年当時のWGP(motoGPの前身)においては、片山敬済くらいしか日本人ライダーが活躍しておらず、それもスペとケニーには太刀打ち出来なかったので、83年以降しばらくは、WGPはアメリカンとオージーの独壇場と言った調子で、そんなWGPに憧れていたロードレースファンやサーキット野郎達は、当然ナショナリズムなど持たず、ストレートにアメリカンやオージーのライダーに憧れていた。

 しかしその後、空前のロードレースブームが幸いして、125と250のクラスでは日本人ライダーが多数活躍し、実際にチャンピオンライダーも生まれることになった。

 しかし、これだけ日本人が活躍しているというのに、主要なマスメディアは全くロードレースや、そこで活躍する日本人ライダーについて報じないことで、多くの日本のロードレースファンは、やり場のない憤りを感じているようだった。

 しかしながら私はそれで結構だと思っていた。なぜならば、偏向した日本のメディアなど私は大嫌いだったからである。

 そして、よくネットの匿名掲示板や雑誌の読者投稿などでも、低迷する日本のロードレース界を盛り上げる、あるいは社会的に認知させるには、もっと日本人ライダーが活躍すべきだと言った意見が耳タコのごとく根強いが、私は全く逆の考えを持っている。

 恐らく、80年代にサーキットを走っていた私と同世代の人なら分かると思うが、80年代の空前のロードレースブームの時には、日本人ライダーなどほとんど世界では活躍していなかったというのに、我々はロードレースに夢中になり、むしろ、日本人が活躍するようになってから、“神”と思っていた外国人ライダーの魅力が薄れ、WGPに対する興味が減退したという皮肉なパラドックスがある。

 別の話をすれば、宇宙人のような得体の知れない生物しか操れないというワークスマシンの神秘性も薄れた。

 そして、以前から指摘しているが、日本人で海外に出て行って活躍したライダーは、みんな幼少期からの英才教育と親の財力を礎(いしずえ)にしているという現実をよく理解してからは、益々我々の世代はロードレースに対してシラケた思いしか抱かなくなった。

 「ロードレースとは、英才教育と金が全てだ」と。

 こうして、我々の世代がサーキットから足を洗い、サーキット人口が激減すると、今度は「ロッシが大好き(はあと)」と言った、自分はバイクに乗らないか、乗ってもピヨピヨしているライダー人気便乗型の“にわかmotoGPファン”が増え、こうした人達が、ロードレースの社会的な認知度に対する不満からか、オリンピックなどの他のスポーツという“隣の芝生”を参考に、今度は世界で活躍する日本人ライダーを応援しようという機運が高まり、ロードレースの世界にナショナリズムを注入しだした。

 いい迷惑である。藤原紀香レベルでいい迷惑である。

 良いニュースもある。SBKやWSSやBSBなどで活躍する、ハガノリ、キヨナリ、ユッキー、フジワラと言った、カタカナ発音の日本人選手達は、日本でのロードレースの社会的認知度など意にも介さず世界に飛び出し、英語を自在に操って現地に溶け込み、ヨーロッパの人達の尊敬を集めている。ご本人達にしてみても、それで十分幸せなのだろう。漂白された、骨抜きの、おとといきやがれ方式のMFJや、「走らせてやってんだ」というあきれた縦社会と懐かしい根性論が特徴的な日本のチームと関わらなくて済むのだから。

 また、ヨーロッパの人達が、こうしたカタカナ発音の日本人ライダーを尊敬するのは、単に闘争心があり、技術力に優れているからである。当然ナショナリズムを発動しているのであれば、日本人などヒールにしか思わないであろう。

 つまり、日本人ライダーを応援するなどという考えでロードレースを盛り上げるという発想自体が、ロードレースの本場であるヨーロッパと比べてもはるかに遅れていると言えるし、ストレートにレベルが低い思考だと言える。

 むしろ、観客はモノホンの格闘技であるK−1のように、ライダーの闘争心とか、テクニックとか、そうした部分に着目して自分の好きなライダーをセレクトすべきだし、ナショナリズムなどクソ喰らえというのが私の考えである。




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