Erv's Letters index Text by Erv Yamaguchi


過去からの脱皮 2008年2月26日 15:31

これまで覚えたことは、とにかく忘れるのじゃ。

『S・W エピ5 帝国の逆襲』のヨーダのセリフより

 2月8日に人生の思ひ出をアップした後、私は意図した訳ではないのに、全く記述していない過去の思い出があったことに気付いた。そうそれは、私が社会に出た後、2輪業界に関わっていない時期にたずさわっていた仕事の話である。思うに、この仕事に対しては、自分自身、人生の汚点の1つとして数えることが出来る仕事だったので、無意識に忘却してしまったのかもしれない。その仕事とは、製造業なのだが、私は中学生の時に趣味でラジコンをやっていた時に、アフターパーツのジュラルミンの削り出しパーツにゾッコン惚れこんでいて、16歳以降、バイクに乗るようになってからも、削り出しのアフターパーツが大好きな少年だった。
 そして、以前にも記述したように、私は16歳でまずは整備士になったのだが、他人が作った部品をバラして組み上げるだけの仕事はすぐにあきてしまい、その後すぐに“部品そのもの”を作ることが出来る人間になりたいと思った。
 そして、19歳頃には、まずはNC旋盤工として町工場で働き、その後は、別の大田区の工場に転職して、マシニングセンタの職人として働いた。こうして私は。憧れの削り出しパーツを作り出すことが出来る職人となった。
 しかし、製造業で働いている間は、いつも経営者と衝突してばかりいたので、1つの会社に長く勤めることはなく、転職ばかりしていた。しかし、様々な工場を渡り歩くことで、それぞれの工場の美味しい技術を頂いてしまったので、皮肉なことに、転職するたびに私は削り職人としてスキルアップしてしまった。

 だが、やはり大田区の製造業に対しては、子供の頃の憧れという情熱だけでは乗り越えられないような、絶対に自分自身と相容れない要素があり、その後の私は、製造業で得たスキルを全て捨ててしまう決意をくだした。

★製造業の欺瞞
 バイクブロガー達のブログを拝読していると、バイクに関するネタがなくなると、職場のグチなどのネタが時々織り交ぜられることに気付く。しかし、私自身はあまりそういうネタを書きたくなかったので、製造業で働いている時のグチなどはこれまで封印してきた。しかし、製造業で働いていた時代の自分の過去を思い出せば、多くのサラリーマンの人達のグチはよく理解できる。
 そう、学生が社会に出て就職すると、会社には様々な矛盾があり、ストレスがたまってくる。むかつく上司、気の合わない同僚、使えない部下、ワガママな顧客、折り合わない取引先、キツい労働条件などなど。数え上げたらキリがないだろう。こうしたストレスは、バイクブロガーに限らず、あらゆる社会人の日記ライクなブログで観察することが出来る。しかし、ブロガーの記述はいつでも表層的で、ラジカル(根源的)な原因追究にまでは言及されていないことが特徴である。恐らくその原因とは、ブログが日記になってしまっているからなのだろう。

 話を戻して、私自身製造業で働いていた時は、作業着に身をつつんでいたものの、給与所得者、つまりは一種のサラリーマンだったので、私自身ストレスは絶頂に達していた。
 『トヨタの闇』(ビジネス社)によると、トヨタは全社的に夏のエアコンの温度が28度に設定されているそうだが、同じ自動車メーカーでも、ニッサンのカルロス・ゴーン氏は、こうした懐かしい根性論をベースにした利益のねん出に対しては、「従業員に罰を与えているだけで、そのようなコストダウンは本質的な改革にならない」と語っているようだが、私がいた会社の社長に聞かせたい、素晴らしいセリフだと思う。そう、あまり思い出したくない過去だが、私が働いていた工場も、夏は28度、冬は20度にエアコンの温度が設定され、勝手に温度が変えられないように監視されていた。また、我々職人が働く現場は1階部分にあり、社長が居座る事務室は2階にあったのだが、2階部分のエアコンの夏の温度設定は、1階の28度に対して20度に設定されていて、事務員の女性は「寒い」ともらしていた。私が事務員に、なぜ2階だけは20度に設定して良いのかと尋ねると、事務所には来客がある為だと説明された為、我々1階で働く職人達は、2階部分を“天上界”と呼び、我々が働いていた1階部分は、相対的に“下界”と呼ぶに至った。
 こうして、夏は熱い空気が、そして冬は冷たい空気が吹き付けるエアコンと格闘しながら、私は機械の部品を、正確に速く生産することに精を出した。しかし、私自身は、幸か不幸か、100分の1秒を争うモーターサイクルスポーツに携わっていた為か、この正確に速くという仕事内容と共に、1000分の1ミリ単位で動かすことが出来るマシニングセンタという工作機械にて、とにかく数字を追いかけるという性格の仕事が性に合っていたようで、自分の能力を最大限に発揮してしまった為、会社から過大な期待をかけられると共に、それと比例してストレスも増大していった。
 そして、最後は肉体的にも精神的にも限界を迎えて退職してしまったのだが、以前働いていた会社のHPをみると、私が退職した後、社員はほぼ100%近く入れ替わってしまっているようだった。つまり社長にとっては、従業員はただの消耗品であり、クタクタになるまで搾取するという対象だった訳だが、私などは比較的高給だったのでまだマシな方で、長時間労働と低賃金で雑用をやらされていた外国人労働者とも一緒に働いていたので、テレビが語る、世界に誇る大田区の技術といった拡大解釈、というよりかはほとんど妄想のたぐいに対しては、その欺瞞性を肌で感じていた次第である。

★私の体験
 しかし、人間というのは現金なもので、こうした仕事によるストレスも、世の中の景気が良く、賃金も高げれば、それほどクローズ・アップされることもなく、飲んで騒げば大抵は乗り越えられてしまう。しかし、世の中が不景気になって賃金が下がってくると、これまた人間は現金で、世の中は殺伐とし、実際に人を殺したり自分を殺してしまったりしだす。つまり現在のような状況になってしまう。

 そのことを私が肌で感じたのは、退職した後に失業保険の給付も終わり、何10社面接しても就職がなかなか決まらなくなってきた時に、アルバイトでガードマンの仕事をした時だった。そして、実際に経験したガードマンの職場は、1日5000円までの日払いの制度があった為、とにかく今日お金が欲しいという、世の中の底辺層で生きる人達のはきだめになっていた。中には、リストラされて、再就職先もないという、高校生の娘が2人いて、家のローン等を払う為に、夜勤、日勤、夜勤という、3連勤という働き方をして、ほとんど何もガードできない放心状態で働いていた中年男性にも出会った。また、仕事が終わった後に、「山口さんすみませんが、50円を貸してもらえませんか?」と言ってくる同僚もいた。彼によると、日払いのお給料をもらいに事務所に戻る電車賃が、50円足りないとのことだった。

 また、上記のエピソードは、底辺層の“層”に属す人達のお話だが、ガードマンの仕事をしている時には、“層”ではなく、“底辺”の人々の実態もよく観察することができた。そう、この時の仕事の現場では、トイレや休憩の際に、街の公園を利用することが多いのだが、そこにはペンルンのおじさん達が沢山いたのである。そして、私にはこんなエピソードもあった。私が仕事を終え、公園で顔や手を洗った際、私はうっかり腕時計を水道の所に忘れて帰ってしまったのだが、そのことを帰宅途中に思いだし、すぐに公園に戻ると、私の時計はすでに無くなっていた。しかし私は、そばにペンルンのおじさんがいたことを思い出し、そのおじさんに訪ねてみようとしたら、私の時計はしっかりとそのおじさんの腕にはめられていた。(笑) そして、私がおじさんに対して、その時計は自分の物だと告げると、おじさんは、「ごめんよ〜、オレは悪気があった訳じゃないんだよ〜」と、すぐに時計をはずして私に差し出した。思うに、よくいがちなモラルの無いオヤジであれば、あらゆる理由をつけてその場から逃れようとしそうなものだが、このおじさんは、もうこれ以上落ちる所はないといった感じで、キチンと素直に私に謝罪したようだった。そして私は、おじさんのその正直さに感銘を受けたので、寒い冬の中、恐らく温かい食べ物を食べることも少ないだろうと思い、コンビニで温かいお茶とおにぎりを買ってきて、私はそのおじさんに恵んであげた。もちろん、こうした私の偽善的行為は、本人の自立心を奪うという反論も承知で告白しているが、私は何か行動を起こさずにはいられない感情にその時襲われていた。しかし、もちろん私は、全国のホームレスの方全員にお茶やおにぎりを差し上げられる財力はないので、この問題の解決には、何か国のシステムの改善が必要だと痛感した。我が国では、寒い冬に凍死するペンルンさんも存在すると言うのに、法人税や累進課税や相続税の税率を引き下げて本当に良かったのだろうか?

 しかし、こうした人達に対して、竹中平蔵がとなえる市場原理主義は、お決まりの自己責任論を突きつけてくる訳だが、日払いの給料に頼る人達や、その後生まれたネットカフェ難民やバーガーショップ難民と呼ばれる人達や、仕事にありつくことも出来ないペンルンの人達は、努力が足りないというよりかは、そこから抜け出せないのだということをリアルに目の当たりにしたのが、この時の私の経験だった。
 ちなみに、石原都知事は、1000億円を都が出資して自ら設立した新銀行東京の936億円の累積損失(出資額とほぼ同額)を埋める為に、400億円の都民の税金をこの銀行に注入したいそうだが、つまり、石原慎太郎の判断ミスに対しては低所得者の自立支援の為の予算4年分の400億円が使われるのに対し、ペンルンのおじさんの人生の判断ミスを支援する予算は増えないということらしい。そう、過去においては、東京都はペンルンの大切な住居を奪うべく、新宿駅から都庁にかけての道路の段ボールハウスの強制撤去を命じたこともあるが、貧しい者はいつでも冷遇され、金や権力を持つ者がシステムを牛耳ってしまっているようだ。
 しかし、読者の中には、ドロボーに食事を恵んであげた私のことを、“おめでたい”と思う向きもあるかもしれないが、石原慎太郎にだまされ1400億円の血税を巻き上げられる都民もかなり“おめでたい”かもしれない。
 また、主に息子の選挙区である品川、太田の企業の融資を行った新銀行東京は、知事が息子の集票に利用したのではという声もあるが、もしそれが本当だとしたら、親バカではなく、都民にとってはバカ親(モンスター・ペアレンツ)とも言える。
 また、当サイトの読者にはバイク乗りが多いので更に補足すれば、2000年の火山の噴火により全島民が避難するほどの大災害となった国立公園である三宅島にて、三宅航路の拡充・整備、漁業・農業の振興、あじさい公園の復元などの観光資源の開拓を優先せず、アカコッコなどの貴重種が生息するバード・アイランドを、自然保護を無視して環境破壊の象徴たるバイク・アイランドにしようと画策したのも石原都知事であり、事前に国内メーカー全社が公道レースに対して反対していたというのに、石原都知事は巨額の税金をかけてマン島視察も行っていた。つまり、多くの都民達は、結果的に、都庁下の景観は大事にするが、国立公園の破壊には無関心な人間を知事としてセレクトしてしまった訳である。

★やってきた新世界
 ところで、以前の日本においては、一億総中流意識というものがあり、比較的穏やかな国という印象だったが、中曽根政権が誕生したあたりから、我が国はネオリベラリズム(新自由主義)路線に走り出し、小泉政権で決定的にネオリベラリズム(新自由主義)を採用した国となったが、政府は、小泉純一郎と竹中平蔵が推奨した市場原理主義により、経済を自由に競争させる為の構造改革を行うことを決定し、実際にそういう社会が到来した。

 彼らは、企業の法人税を減らしたり、相続税や累進課税の税率を下げることで、簡単に言えば大企業や金持ちを優遇し、貧乏人を切り捨てる政策を推し進めたのだが、彼らは、儲かっている大企業や金持ちの税率を高くすると、グローバル化により大企業や金持ちがアン・ルイスのように税金の安い国に逃げてしまい、むしろ税収は減少し、貧しい人への福祉等もなくなってしまうというフィクションを作り上げ、「小さな政府」「聖域なき構造改革」「郵政民営化」などといった、電通が練り上げた、悪名高いワンフレーズ・ポリティクスを駆使して、自分達のプロパガンダを広めることに成功した。

 しかし、実際には、竹中平蔵が唱えた、金持ちが金持ちになると、貧乏人にもおこぼれがあるというトリクルダウン効果は全くなく、貧乏な人が益々貧しくなっただけでなく、前述した中年のガードマンのように、大企業が自らの保身の為に切り捨てた中間所得層も貧困層にどんどん転がり落ち始め、格差は固定化されてしまった。これに対して市場原理主義擁護派は、大した能力もないのに課長職や部長職について高給を得ていた人間をリストラしなければ、日本の企業の国際競争力が減じてしまうので、こうした自由競争による切り捨ては、日本の成長に欠かせないと主張し、貧困層に転げ落ちた人達は、本人の努力が足りなかったという自己責任論を暴力的に振りかざし自己肯定してみせた。また、総理大臣は転げ落ちた人達に対しては、「痛みに耐えよ」と助言し、「構造改革なくして景気回復なし」と説明した。しかし、ケインズの言葉を繰り返せば、「お説はごもっともだが、長い目で見れば我々はみんな死ぬ」と私には思われたし、回復した景気とは、主に輸出で儲ける大企業の利益のことであり、庶民の暮らし向きが良くなった訳ではなく、むしろネオリベラリズム(新自由主義)による中間所得層と貧困層の負担の増加で、我々の生活は益々苦しくなっていった。

 ところで、金持ちが更に金持ちになり、貧乏な人が更に貧乏になるというゼロサムゲームが正しいとした場合、税率が下がることで得た、大企業や金持ち達のあぶく銭は、一体どこへ消えてしまったのだろうか? 彼らは経団連という組織を作り与党に政治献金し、電通を通じて、新聞・テレビ・ラジオ等に広告費という名の口止め料を支払うことで報道を牛耳り、自分達の利益が更に拡大するようなシステムの構築にお金を使用したようだ。つまり彼らは困ったことに、自分達が得た余ったお金を、貧しい人達に与えようと考えるどころか、まるでぞうきんをしぼるかのように、更に貧しい人達から搾取しようと考えだし、自分達が得た既得権益が絶対に失われないよう政治とメディアに配慮した訳だが、これが、マルクスが言うところの、ブルジョアのイデオロギーであり、ネオリベラリズム(新自由主義)が唱える自由、つまり人間の自然権とは、全ての人が自分のやりたいことが出来るチャンスがあるという意味ではなく、仮に一部の人達が食糧を独占し、他の人達が餓えて死んでも、その人達を守る法律は作らないという意味である。(そのような法律は、彼らの定義では自由競争を妨げる意味のない規制とのことである)

 私はそうした世の中を傍観し、仮に自分が金持ちだったと仮定しても、殺伐とした世の中に対して対策する為に、セコムを雇ったり、高価な金庫を購入したりと、税金が安くなったとは言え、別の出費もかさむと共に、仮に暴動等が起きて金持ちが真っ先に狙われるようであれば、むしろ、多少税率が高くとも、一億総中流社会の中で、安心して街中を歩くことができる国の方が、金持ちもむしろ幸せなのではないかと思い始めた。

 また、仮に自分が大企業の社長だったとしても、トヨタやキヤノンのように、庶民からの草の根的な不買運動が活発化するのであれば、最初から正規雇用を増やし、自殺者が出ないような職場環境の構築に精を出した方が、顧客や社員から恨みを買ってまで余剰金を絞り出すより、よほど胸を張って死ねるのではないかとも思った。
 しかし実際には大企業や金持ちにモラルはなく、我が国も貧困層が増えるにつれ、富裕層や大企業に対するねたみ等が増え始め、世の中は益々殺伐としたイキフン(雰囲気)になってしまった。

 こんな世の中を傍観した私は、仮に税率が高いことで大企業や金持ちがタックスフリーの国に逃げてしまうのであれば、むしろ貧困層から搾取しても全く平気というモラルの無い人がいなくなることで、残された貧困層もねたみや恨みといった負の感情が減少し、全員、江戸時代や、あるいはブータンのような国のごとく、共存共貧で暮らした方が良いのではないかと極論するようになってきた。ある種の開き直りである。
 これに対して、全国のキモメンとブサメンの味方である、経済学者の森永卓郎氏は、政府の予算が足りないのなら、大企業の法人税を引き上げるべきだと主張し、企業が海外に逃げるという反論に対しては、「逃げたければ逃げろ」とか、「法人税が高かった時代に、本田宗一郎や松下幸之助が海外に逃げたのか」と反論していた。大変クールな回答だと思う。

◆補足



 ↑は、社民党党首の福島みずほ氏と森永卓郎氏の格差社会についてのスピーチ。



派遣法改正し“労働者保護法に” 志位委員長が質問(約51分)
【2月8日、衆院予算委員会】

 ↑は国会での共産党の質問で、私もテレビの生放送を見ていたが、キヤノンの大分工場等、劣悪な派遣社員の実態が共産党により告発されている。また、共産党に対するアレルギーから、国民はこうした質問も無視するのかと思いきや、インターネットの世界では、トヨタ、キヤノン製品全般の不買運動にまで発展し、投票行動よりも先に、直接行動にて大企業の横暴に多くの人達がノーをつきつけていることを知り、私は感銘を受けた。もちろんこうした不買運動も非常に有効な手段として私は応援したいが、与党以外の党に投票するという投票行動も伴うことで、弱者救済を大きな国民の声にしていくべきだとも思われる。

★背にハラ非常事態宣言
 以前までは、これを読む多くの皆さん同様、私自身、社民党や共産党など、まったくアウト・オブ・眼中のノーマークで、かと言って、フランス政府がカルト指定している宗教団体が支持ベースの政党が与党という、世界的に見てもかなりトンデモな状況に対して危惧していたので、特別強く支持している訳ではないのに、消去法にて私は民主党に投票していた。
 しかし、今年に入ってから、日本の政治家などカンケーネーと言った調子で、「チェ・ゲバラのクールさは異常」と、私自身が社会民主主義者となり、それに伴い、あまりクールではない社民党や共産党のHPも見るようにもなった。
 しかし、あなたも感じているように、多くの国民は、社民とか共産という言葉に対して、強いアレルギー反応があると思われるので、多くの人は、なかなかストレートに社民党や共産党に票を入れたいとは思わないだろう。
 ちなみに、『自由民主党』を英訳すると、「リベラル・デモクラティック・パーティ」という、まるでヒッピーが作った党なんじゃないかと勘違いされるような“愛と自由”に満ち溢れた名前がついてる訳だが、これが、1発10億円する、計画自体は数兆円規模というミサイル防衛計画を推し進める、日本を代表とする右派及び保守の党の名前だというのが正に笑えないジョークとなっている。否、自民党とは、名前に対してすでにその存在自体がブラックジョークだ。
 あるいは、共産党と言うと、「すでに失敗したじゃん」といったかつてのソ連や、あるいは独裁政権で勝手に他国のお金を印刷したりする北朝鮮を連想してしまい、あまり近寄りたくないイメージがある。また、多くの人は、共産党は名前を変えるべきだと共産党に対して助言しているが、全くその気がないのは、硬直化の表れという気にもなってしまう。
 また、さんざん私はネオリベラリズム(新自由主義)に対して警鐘を鳴らしているが、自民党内にも、ネオリベラリズム(新自由主義)傾向が高い政治家と低い政治家がいるだけでなく、民主党内にもネオリベラリズム(新自由主義)傾向が高い政治家と低い政治家がいることで。市場原理主義と社会民主主義の闘いの構図になっている訳でもなく、政治が分かりにくくもなっている。
 こうした閉塞感が、大衆の政治への関心の低さにあらわれ、投票率も下がってしまう訳だが、庶民の知らない間にネオリベラリズム(新自由主義)という猛毒を注入された現在の日本は、“非常事態”だという認識を高めると共に、“背にハラ”で、政治的関心を高めるべき時が来たようだ。


反米すすむラテン・アメリカ(『デモクラシー・ナウ!』より)

 ブッシュのスピーチと、チャベスに対する民衆の圧倒的支持とのコントラストがかなり笑えます印象的です。




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