Erv's Letters index Text by Erv Yamaguchi


路線変更宣言 2008年2月15日 21:14

 モータースポーツとの出会いに対して私は天に感謝している。なぜならば、モータースポーツとは、資本主義社会がいかに人類を不幸にし、このイデオロギーの採用が、いかに多くの貧しい人達からあらゆるものを搾取し、貧富の格差を拡大したのかを私たちに教えてくれる、現代社会の非常に分かりやすい縮図、つまりはケーススタディ(事例研究)だったからである。

 つまり、モータースポーツの世界を少しでも垣間見れば、現代社会の欺瞞性が理解出来ると共に、今後の道筋への希望も湧いてくるのである。

 しかし、これを読む読者は、今でもクルマやバイクといったモータリゼーションや、それを競争させて喜ぶモータースポーツに対して好意を寄せていると同時に、資本主義社会や、競争社会や、ネオリベラリズム(新自由主義)は、少なくとも現時点では人類の正しい選択だとブレーン・ウォッシュ(洗脳)されている可能性が高いことが予想されるので、人類が抱いたイデオロギーなど、時代背景によって簡単にコロコロと変わってきたのだということについて、まずは語ってみよう。

★これまでの流れ

  原始共生社会

    ↓

  封建社会  →  革命による共産主義社会  →  おおむね失敗

    ↓

  資本主義社会

    ↓

  格差が拡大して近日中に失敗予定

    ↓

  次のなにか


 私が考える幼稚で大雑把な暴論として、これがこれまでの社会の流れである。
 この中で、環境を破壊せず、大自然と調和していた、最も理にかなっていた社会とは、原始共生社会であるので、この時代に戻るべきだという想いが私にはある。しかし、では実際に私自身がどこかの無人島か、あるいは陸の孤島ライクな山奥に住んで、ヘビーエコロジストになるのもリアリティーに欠ける。また、世の中は広いので、実際にそうした貨幣経済に背を向けた生活を行っているヘビーエコロジストの方も存在はする。しかし、その人達が時代の流れを変え、地球温暖化をストップするリアリティーもないし、それまで通り人間社会で暮らす人達の横暴により、そうしたヘビーエコロジストの人達が住む自然環境も破壊されていけば、こうしたヘビーエコロジストの方達も、ただの現実逃避したオメデタイ人に成り下がりかねない。
 つまり、残された道は、我々普通の庶民達がいかにして新しい社会をつくるかで、庶民の団結が必要であり、庶民達は、資本主義によっては、絶対に自分達の問題は解決されないということを悟るべきであり、政治的意識に目覚める必要があるようだ。

★最後の『勝ち組』『負け組』
 こうした社会問題について語ると、現代社会の正当性をかたくなに信じたいという頑迷な人達から攻撃を受けやすい。しかし、ネオリベラリズム(新自由主義)を盲信する竹中平蔵のような頭がイカれた伝統主義のエコノミスト(経済学者)や、実際にチャンスを手にして富裕層の仲間入りを果たした一握りのエスタブリッシュメント(支配層)だけでなく、実際には富裕層ではない人達でも、貧乏人をさげすまし、金持ちを擁護した発言をしたりしているのを見聞きしていると、いかに資本主義に対する洗脳が凄まじいのか、逆説的には、共産主義や社会主義に対して、いかに人々のアレルギー反応が強いのかがよく理解できる。
 ステレオタイプの意見として耳タコなのは、貧乏な人が貧しいのは本人の努力が足りないからで、金持ちから搾取して貧乏な人に金を与えると、金持ちのやる気がなくなり、社会が堕落するという意見だ。(パリスやブリトニーは先陣を切ってすでに堕落していると思う)
 正直に告白すれば、私自身若い頃はこのように考えていたので、自分自身も努力して働くべきで、金を稼ぐことが“善”と考え、自称拝金主義者として恥ずかしげもなく語っていた。また、私自身だけでなく、世の中自体が経済成長すべきであり、成長こそ“善”とも考えていたので、昨年までは、我が国の2輪業界が成長する意味でも、国益として国内のメーカーのマーケティングに関して助言するような記述が多かった。

 しかし、昨年一緒に働いていたビジネス・パートナーに対して、私があまり深くも考えず、世の中の流行語といった調子で、『勝ち組』『負け組』というフレーズを使ったところ、パートナーは少し機嫌が悪くなった後、正直にこの言葉は嫌いだと言い出した。彼によれば、この『勝ち組』『負け組』というフレーズは、富裕層が我々にヒエラルキーをしっかりと認識させる為の洗脳に利用されているフレーズで、我々庶民は、負けたつもりはないのに『負け組』だと決めつけられるのは心外だと言うのである。もちろん、私はそれ以降、彼の前でこのフレーズを使用することを自粛したが、逆説的に考えて、現在『勝ち組』と呼ばれている人達は、本当に勝ったのだろうか? 巷では、全世界の上位数%の富裕層が、人類の富のほとんどを掌握していると言われているが、その人達の利権を守る為に、戦争が画策され、実際に人が死に、戦地は荒廃し、経済を成長させる為に環境も破壊し続ければ、その一握りの富裕層の人達が生きていく土台、つまりこの惑星の人類の生存環境そのものがなくなってしまう訳で、つまり、死につつある惑星の上では、ビジネスはうまくいかないのではないだろうか? そして、実際にこの惑星の上では人類は生きていけないという状況になった場合、人類ではなく、ゴキブリやネズミのような生物が地球を支配していたとしたら、彼らにとって人類自体が全員『負け組』になってしまうのではないだろうか? つまり、タバコ会社は、その最も大切な顧客をジワジワと殺していくビジネスを営んでいるが、全員が死んだ後は、自分も死ぬことになるのである。

 そして我々は、今後も継続してこんな社会システムを手放しに歓迎していても良いのだろうか?

★競争の欺瞞
 幼稚園の保母さんは、園児達に対して、「みんな仲良く」と言う。しかし、園児以上に大人の社会はみんな仲が悪い。様々なイデオロギーが対立しているだけでなく、人種間や宗教間での争いは一向になくなりそうもない。それどころか、益々ひどくなっているようにも感じられる。
 こうして人類の足並みが揃わず、みんなで争っている内に、人類自体が滅亡し、結局人類全員が負け組になる可能性が高まってきた。

 話がマクロ過ぎるとマブタが重くなる読者の為に、サーキットの話をしてみよう。景気が良い時、つまり80年代後半は、若者がサーキットに日参していた。サーキット人口は多く、サーキットやMFJなどは、ライセンスと共益費の収入で肥え太っていった。それでも若者達は皆ハングリーで、サーキットの競争社会を素直に受け入れていた。しかし、フタをあけてみると、サーキットで成績を残す者は、親の私有財産の恩恵を受けている一部のライダー達に絞られていることが分かってきた。つまりは、金持ちの親がスポンサーになっていたり、メーカーの上層部の息子が、その辺りのコネを利用して速く走っていたりもしていた訳である。
 では、自分の金で走っていた若者は、その後どうなったのだろうか? 自分の金で走っていた若者は、親の私有財産を武器にした若者に対し、自分の信用限度一杯まで金を借りて対抗したが、多くの者は最後は疲弊し、2度とサーキットには帰ってこれない体となった。彼らが貧しくなったのは、本人の努力が足りなかったからなのだろうか?

 更にミクロ分析を追及してみよう。私が考える、過去のアマチュアレースで、最も激戦だったカテゴリーの1つは、1987年から1990年の間のSP250だと思う。
 このカテゴリーが激戦となったルーツは、83年の宮城光選手と山本浩生選手のF-Vの争いだと思われるが、独自のアルミフレームを製作しても良かったF-Vが高コストだった為、MFJはSP(スポーツプロダクション)という名の、より改造範囲が狭いカテゴリーを創設した。若者達は、将来のF-Vを目指して、まずはこのSP250で争いだした。しかし、フタを開けてみると、SP250は、多くのチャンバーメーカーがお膳立てした、ショップワークスが上位を独占することになった。こうしたショップは、勝つ為には手段は選ばず、特にメーカーと関わりが深かったショップなどは、メーカーのラインの中から、最適な組み合わせのシリンダーとピストンを抜き出し、最高のパワーを発揮してレースに挑んでいた。(中にはパーツ番号が打っていないような部品も使われていた)
 こうして自社のチャンバーをつけたマシンが勝つと、次のレースでそのチャンバーが良く売れ、売る為にもレースで勝つ事がトッププライオリティー(最優先事項)となっていた。また、売れたのはチャンバーだけでなく、タイヤメーカーも同じことをしていた。そう、タイヤもまた、レースで勝つと、次のレースでは、勝ったタイヤがパドックをほぼ独占してしまうことが分かっていたので、タイヤメーカーも、見かけが同じで中身が違うスペシャルコンパウンドのタイヤをショップワークスに提供していた。こうしてプライベートライダーは、プライベートライダーの為に用意されたレースで勝てなくなったのだが、プライベートライダーが勝てないのは、彼らの努力が足りなかったからなのだろうか? 否、プライベートライダーが勝てなかったのは、メーカーにモラルがなく、システム自体もインチキだった為である。

 つまり、これが資本主義社会のからくりであり、貧しい人は努力が足りないのではなく、努力しても抜け出せない環境にあり、富める者が更に富むのは、富裕層にモラルがないことと同時に、彼らがシステムを牛耳ってしまうからである。そして、この不平等な格差に対して人々が盲目的になってしまうのは、あくまでも“競争”が賛美されている為である。

★話題にされない欺瞞性
 しかし、皮肉なことに、多くの若者が挫折し、サーキットを去ってしまうと、サーキット人口は激減し、チャンバーメーカーはチャンバーが売れなくなり、ついには倒産してしまった。
 また、胴元であるサーキットやMFJも、サーキット人口の減少に伴い経営が苦しくなった訳だが、ヘビが自分のシッポに噛みついたかのごとく、凄まじい競争賛美は、最後は胴元の死をも予感させた。
 今から4半世紀前は、サーキットは貧者と富者のガチンコバトルだったが、このバトルに決着がつくと、現在のサーキットはセレブ御用達の排他的クラブに模様替えし、顧客のエイジング(高齢化)に伴い、金持ちの道楽に適した社交場にすることが急務となった。
 では、金持ち達は現在どんなバイクを走らせているのだろうか? 金持ち達は、4半世紀前のGPマシンをはるかにしのぐパワーを持った、リッターSS車や、所有する満足感の高い装飾品のような輸入車をサーキットで走らせるようになった。
 こうしてサーキット走行が高級車のパレードと化すと、サーキットは益々庶民の手から離れた存在となった。つまり、ただ免許を持っているだけというライダーには、走る権利すら無いという訳である。もし走りたいのであれば、まずは稼いで来いといった調子だ。

 このように、サーキットを走るセレブに対して、何の疑問も生まれず、むしろ免許を所有するだけというパンピーライダーは、彼らに羨望の眼差しを向け、21歳の若さでmotoGPのチャンピオンになったライダーの話題を語り、次のチャンピオンはどのセレブになるのかを予想し合っている。つまり、セレブだけが舞台に上がるシステムに関しては、誰も何も語らない訳だが、こうして、ロードレースは、累進課税の強化や大企業の法人税の引き上げ等に関して、全く何の話題にもしない現代社会と不気味な類似性を見せていると共に、歩を同じくして格差の拡大に邁進している。

★切羽詰まってきた人類
 本題に入ろう。私は今日から、拝金主義者をやめ、人生の目標を、財産を残す事から、地球を残す事に変更しようと思う。いや待てよ、「地球を残す」というフレーズには語弊があるだろう。なぜならば、地球自体は誰かが爆破でもしない限り、そのまま約50億年は残るだろうからである。従って、もっと正確に言えば、「人類の生存環境を残す人」の方がより正確で正しいのかもしれない。
 まー、大義名分はどうでもいいのだが、現在の富裕層、例えばアメリカの大企業のCEOの報酬が、例え会社を赤字にしていても数10億円だったり、中身はほとんどプチ北朝鮮化し、パートや社員からの搾取により暴利をむさぼり、ナンバーワンのリコール率でそのまま欠陥車を放って殺人ほう助に加担しながら何兆円もの利益をプールしているような悪名高い自動車メーカーのような大企業が、政治家への献金や広告費を駆使してメディアを自由にコントロールし、自己保身していることもさることながら、最悪なのはアメリカのユニラテラリズム(一国主義)であり、石油利権やドルの基軸通貨の座を守る為に、軍事力を駆使して罪の無い人を平気で殺戮したり、あるいはその殺戮の為に自国の国民をも戦死させたとしても、全く平気のへーさと言ったブッシュ政権など、こうした一部のエスタブリッシュメント(支配層)のグロテスクな精神障害に対しては目を覆うものがあるが、今後の私は、ネオリベラリズム(新自由主義)という武器を片手に持った資本主義社会は、明らかに間違っていると声を大にして叫んでいきたいと思う。

★破滅の預言ではなく、別の道に進めという勧告
 ちなみに、前回の『アーブの手紙』にて、私がモータースポーツに興味を持った理由は、幼少期に観たモータースポーツを通じて、人種や言語の違いを超えて人々がバカ騒ぎしている様子に対して憧れていたことを記述したが、つまり私は、本来競争社会になど興味はなく、根底に流れるスピリッツは、絶対平和主義だったのだと気付いたので、今回はそれをカミングアウトしたいと思う。

 また、大人になって、いざモータースポーツの現場や、大人社会を生きてきた結果、競争を“善”とする資本主義社会や、貧しい者を切り捨てるネオリベラリズム(新自由主義)は、全くのインチキデタラメで、人類を幸福にするどころか、むしろ人類にとって有害なイデオロギーだということが理解できたので、今後の私は、ユーロ的社民主義や、現代人がアレルギーを持っている共産主義に対しても、実は共産主義を提唱したマルクスの言う共産主義と、これまで実現し、そして失敗した共産主義は別物だったということに関しても語っていきたいと思う。

 しかし、一般的なアメリカ人は、社会主義や共産主義に対して、ネオリベラリズム(新自由主義)の洗脳先進国であるが上の、かなりヒステリックなアレルギーを持っているが、我々日本人も、ソ連の崩壊や、北朝鮮に対する気味の悪さなどと共に、「歯ブラシくらいは自分の物を使いたい」と言ったイメージで共産主義に対してアレルギーを持っているが、日本の共産党は硬直化し、社民党もユーロ的社民主義の代弁にしては貧弱なのは私も認めるところである。
 しかし、幸いなことに、私より若い世代の人達は、既に社会主義を知らないので、庶民寄りな政策や、弱者救済措置が、そのままイコール左翼というバイアスはないようである。
 また、マクロで言うと、アメリカ的なネオリベラリズム(新自由主義)により貧富の差が拡大したことで、人々の不満と反米感情が高まった為に、ラテンアメリカでは有色人種のリーダーの中で、カリスマ性のある政治家が指導する改革運動が生まれる余地が生じたことも、ポジティブなニュースと言える。
 ちなみに、バイク乗りの諸氏も、単にバイクが登場するからという理由で、『モーターサイクル・ダイアリーズ』という映画はご存じかもしれないが、これは、主人公がバイクでの南米の旅の途中に、先住民の苦しみを垣間みて、その後キューバでマルクス主義革命を起こしたチェ・ゲバラの若い頃のお話で、市場原理主義により先住民の土地が搾取されたことに対する憤りから、南米の社会主義の下地のルーツが生まれたことが分かる映画である。

 そして、私自身は、サーキットは残すがライダー達の息の根は止めてきた歴史を持つ、漂白された、骨抜きの、おとといきやがれ方式のMFJを傍観し、モータースポーツとは、まさにネオリベラリズム(新自由主義)のような、建物は残すが人間は殺してしまう中性子爆弾だということが分かったが、今後は、人類全員が『勝ち組』になれるような、人類の次のステージの構築について、色々と妄想したいと考えている。なぜならば、モータースポーツになど関わっているヒマは、人類にはもうないのだから。

 えっ? 何々? アーブ山口は「語るに落ちた」だって? そんなあなたは、大衆迎合主義ならぬ、サーキットの住民迎合主義者なのかもしれないが、こちとらいつまでも過去の遺物に付き合っているヒマはなく、バスに乗り遅れたくはないのだよ。


革命家チェ・ゲバラ 没後40年の遺産(『デモクラシー・ナウ!』より)




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