Erv's Letters index Text by Erv Yamaguchi


アルティメット・ライディング
2008年8月17日 12:48

 ロードレースとは何か? それは、耐えがたい程幼稚な為に、1年もすれば時代遅れになるシロモノである。

 ただし、これは主にマシン側の技術的な側面での話であり、タイヤが前後に2個という部分をのぞいて、マシン側の技術面に関してロードレースに普遍性を見出すことは難しいと言える。

 しかし、である。ライダーが観客にもたらす感動という側面ではどうだろうか? そう、私の説明は回りくどいが、私にとってアルティメット・ライディング(究極のライディング)として普遍性を持っているのが、1989年のローソン・レイニー・シュワンツの3強が織りなした伝説的なバトルである。
 そう、私にとってロードレースとは、1989年のロー・レイ・シュワのバトルだけだと言っても過言ではない。また、1989年に多感な時期を過ごしたロードレースを愛すバイク乗りであれば、私の気持ちを深く理解することが出来るだろう。

 それに対して、ここ10年でロードレースファンになったというニュー・ジェネレイションは、主にキャラが立っているロッシのワンフー(ファン)という方も多いと思うので、そうした人達にとっては、私のようなオールド・ジェネレイションの意見など、ただの懐古主義と一蹴されるかもしれない。それはそれで別に構わないのだが、現在のライダー達に罪はないとは言え、現在のmotoGPをあくびが出る程退屈なものにさせているのが、トラコン(トラクション・コントロール)の存在である。また、皮肉な見方をさせてもらえれば、ロードレースに普遍性がないことで1989年のロー・レイ・シュワの走りにおける我々の感動を普遍的なものにしたのが、トラコンの存在とも言える。

 たしかに、1989年当時のGP500と、現在のmotoGPを比較して、バンク角やコーナーリングスピードなどは、見違える程の進歩を遂げており、私などの年寄りにはその速さに目が追いつかない程だ。恐らく、ここ10年でmotoGPファンになったという人達からすれば、1989年当時の映像を見ても、浅いバンク角に遅いコーナーリングスピードが、古き良き“のんびりした”時代に映るのかもしれない。
 しかし、それでもなお、マシンコントロールの妙味という意味では、私は1989年のロー・レイ・シュワの走りが究極だと考えている。つまり、ライディングに対する感動という普遍性においては、ニュージェネレイション+トラコンの結婚の結果は死産となり、アメリカン+2スト500の結婚には勝てなかったというのが、我々オールド・ジェネレイションの感情論的な感想である。

 もしかしたらば、ニュー・ジェネレイションは、ロジカル(論理的)に私を批判するかもしれない。
 現在のmotoGPマシンや、またそれを操る現在のライダー達は、マシンの前後のバランスを究極まで追及することで速さという名の資産を入手したのであり、現在の価値観では、前後のバランスを無視した1989年のアメリカンライダーの走りは、ロードレースにおけるライディングの大原則に反している、と。
 仰る通りである。しかし、彼ら往年のアメリカンライダー達は、あえてこの大原則に従わず、現代のライダー達の走行ラインに対する意図的な文法違反は、独特の迫力と共に我々にポジティブな違和感を与えることで、我々の世代の脳裏に鮮烈な印象を残すことに成功した。

 ガタガタ能書きを語るのは、私が歳を取った証拠かもしれないが、↓に紹介する映像をご覧になって頂ければ、1989年の往年の名ライダー達が繰り広げたライディングが、いかに我々の世代に感動を与えたかということに対して、あなたの想像力を喚起することだろう。
 トラコンを使ったマシンではありえないスライド、スライドが止まった後のウィリー、などなど、往年のアメリカンライダーは、ライダーというよりかは、我々の世代にとっては正にバケモノである。まったくもって、今見ても、これを操っているのが私と同じ人間とは到底思えない。






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