Erv's Letters index Text by Erv Yamaguchi


遺伝子操作に対する警鐘 2008年6月20日 11:50

 下記は、まだ私がインターネットを利用していなかった、1997年8月15日に友人・知人に宛てた手紙であるが、私の遺伝子操作に対する考え方は、11年あまりが経過した現在においてもいささかも変わっておらず、再度書き下ろすのもメンドーだった為、一字一句変更せずに、そのまま紹介することにした。



★クローン
 先日、テレビのニュース番組にて、羊や猿に引き続き、我が国で牛のクローンに成功したという報道があった。そして、このニュースを報道した女性キャスターは次のように語り締めくくっていた。

「このような出来事に対し、安易に危険だ危ないとばかり批判の目を向ける事はいかがなものでしょうか。すでに生命を作り出す事が出来るのは、神ではなく我々人間なのですから・・・」

 言葉通り、神をも恐れぬ大胆な発言だが、恐らく彼女は100%無神論者であり、『人類の英知』という美名にぞっこん惚れ込んでいる人だったのだろう。
 しかし、最近のバイオ・テクノロジー(遺伝子工学)の進歩の速さを観察すると、すでに神は人類の手に堕ちたのではないかと錯覚してしまう程であり、この女性キャスターのような人が着実に増えている事は確かだろう。
 しかし、このキャスターを含め、科学者達は、人類が地上から神を追放しただけではなく、すでに我々人類が神になったというフィクション(作り話)を世に広めている。
 果たして我々庶民は、この言葉を盲目的に信用してもいいのだろうかと私は懐疑的に思い、先のニュースを見た後、胸が悪くなる気持ちを抑える事が出来なかった。

★パンドラの箱
 私は幼少期に異端児と呼ばれる事に快感を覚えるような少年だったので、学校で教わる授業にはほとんど懐疑的であったし、むしろマンガが私の師であった。
 私は特に故手塚治虫氏の作品から多くの事を学んだが、前回に記述したように、本当の歴史を知るにはどうしたらよいかも、手塚氏の作品である『火の鳥』から学んでいた。
 この『火の鳥』は、不死鳥という設定である為、過去の話だけではなく、未来の話も登場するのだが、手塚氏は今回の私のように、やはり未来に対しても人類の愚行に批判の目を向けていた。
 ところで、私の幼少期のクローンに対するイメージは、ズバリこの『火の鳥』に端を発するのだが、以下に『火の鳥』にて登場したクローンについて少し記述したい。
 手元に『火の鳥』がないので、私の定かではない記憶によるものだが、『火の鳥』の中のあるお話では、未来のテレビ番組で、色々な動物をハンティングする番組の視聴率をよくする為に、どんどんそのハンティングがエスカレートしていくのだが、だんだん視聴者は刺激が足りなくなり、ついには生身の人間をハンティングさせようという事になる。しかし、当然それでは殺人になってしまうのだが、クローン人間ならば人権はないという事で、クローン人間をハンティングする番組を作ってしまい、それでも刺激が足りないと、大量にクローン人間を生産して、クローン人間同士で戦争させてしまうところまで話はエスカレートしてしまう。
 このお話ではクローン人間の人権という、まだ起きていない未来の出来事に対して手塚氏は問題提起していたのであるが、私は子供ながらにクローンに対する恐怖心を覚えた。
 しかし、私は私の人生よりも短い間に、この問題に直面する事はないだろうと思っていたし、あくまでもSFチックな空想の世界に過ぎないと昨年までは思っていた。
 ところが今年(1997年)に入り、羊、猿、そして我が国では牛と、哺乳動物のクローンを写真や映像で見るにつれ、私は説明不可能な虚脱症状に襲われた。ちまたでは、クローン技術が手に入っても、これをヒト(人間)に使用する事は倫理的に許されるべきではないとしているが、極秘でプルトニウム(放射性核廃棄物)を民間人に投与するという人体実験を行なう“自由の国”が実際に存在するこの世の中で、人体のクローニングが行なわれていないと考える方が、よっぽどオメデタイと言わざるを得ないだろう。
 これは、平和を願って爆弾を発明した結果、広島と長崎に原爆が落ちたように、単に科学者の得意の美辞麗句で、好奇心や功名心の為なら何をしても良いと考える科学者の悪いクセであり、パンドラの箱に通ずるものを感じずにはいられないのは果たして私だけだろうか。
 科学者は口を揃えたように「真理の探求」とこれを表現するが、私から見れば、「かなづちを持つ男は世界中が釘に見えるだけだ」としか思えないのである。

★イギリスに続く日本
 約200年前に、イギリスは石炭を利用する事で産業革命を興し、続いて石油を使う事で、人類は現代文明を築き上げた。
 我々はこれらの化石燃料を燃やす事で、それまでにない全能感を味わう事が出来、神をも恐れなくなったが、化石燃料の枯渇が近づくにつれ、人類の英知という言葉の信用度も下降線を描き始めている。
 化石燃料とは、文字通り過去に生きた生物の死体であり、ここ200年あまりの我々の繁栄は、単に過去の生物の死骸の山に支えられてきただけであり、我々が築き上げたビルなり道路なり自動車は、過去の生物に対する冒涜(ぼうとく)の証しであり、我々現代人は神ではなく、ただの墓荒らしだった事が明らかになりつつある。イギリスでは化石燃料が枯渇するにつれ、もはや過去のような力も勢いもなくなってしまったのである。
 ところが、イギリスの産業革命から200年後、新たに文明を築こうとする極東の島国が現われた。我が国日本である。イギリスに憧れ、地下に眠る黒い水をあさっていた多くの国々も、この黒い水が枯渇に近づくにつれ、今度は日本に対し羨望の目を向け始めている。
 我が国日本では、石油のかわりにDNA(デオキシリボ核酸)を使用し、機械技術からコンピューター技術に移行する事で、新しい文明を作り出そうとしている。つまり、これまでの工業化時代は終焉を迎え、これからは遺伝子工学時代に突入するというのである。
 日本が遺伝子工学時代の先頭を走り出すには、資源不足という島国特有の問題が背景にある。なぜならば化石燃料には採掘寿命があるが、生物資源は無尽蔵に存在すると科学者は言うからである。
 生物の遺伝子をコンピューターでプログラムし直して新たな生物を作り出せば、人類にとって有益な製品を作り出す事が出来、しかも化石燃料と違って、生物資源は再生可能である。しかし、本当に永遠に再生可能なのだろうか。

★バイオ・テクノロジー
 我々が工業化時代に身につけた悪癖は、経済成長という名のスピード感である。ところが遺伝子工学はこのスピードに対する要求を満足させてくれるような気にさせてくれる。
 簡単に言えば、ある種に対し別の種の遺伝子を組み込む事で、人類にとって有益な製品を生産し、生物の成長スピードを最大限に引き出し、短期間に利益を上げようというのである。
 今日、鉱業の世界では鉱夫や採掘機械にかわる微生物の開発が実際に進んでいる。例えば鉱物中の不純物を食べ尽くし、粗銅鉱にふきかけるだけで純銅にかえてしまうバクテリアの開発に成功した会社がすでに出現している。
 エネルギー産業では、自動車用のアルコール燃料を砂糖キビから作り出す実験が進行中であるが、遺伝子工学により、将来は植物燃料が作り出され、代替エネルギーとなる可能性もある。
 農業では、これまでの石油化学中心の農業にかわり、収穫をアップするべく、植物の光合成能力を増加する研究や、害虫やウイルスに強い遺伝子や、塩分の高い地質、乾燥した地質に強い遺伝子を抽出する研究が進められている。
 畜産業界では、受精卵のレベルで、新しい遺伝特性をプログラムする研究がすすんでいて、そこではすでに『種』というものは意味を失い、将来種を越えて遺伝子の交換をする事は当たり前になると予想されている。例えば、粗末な草を食べても、高価な飼料穀物を食べたのと同じだけ成長する牛とか、新種の動物を作り出す事は技術的に可能になっている。
 更にクローニング(ひとつの生物の受精卵細胞から核を取り出して、もとの生物と同一の遺伝構造を持つ複製を培養する技術。無性繁殖)は可能性に満ちていて、将来、時間もかかり、人間の思うようにはなってくれない繁殖周期をなくす為に、家畜全部を無性繁殖で生み出し、均一で良質の食肉の生産をするようになる事も予想されている。
 そして、これらの遺伝子工学を人体に応用する事も出来るのである。今では、妊娠3ヶ月の胎児から染色体のサンプルを取り出し、約60種の遺伝病の発生を予測する事が可能となっているが、将来は受精の段階で自分に好ましい遺伝性質を選び出して、胎児の段階で直接プログラムし直せる事も可能というのである。つまり、数学が出来る子とか、音楽が得意な子とかを、胎児の段階で直接プログラムし直せるというのである。
 ここまで書くと、まさにバイオ・テクノロジー(遺伝子工学)のおかげで、化石燃料の枯渇後も、人類の将来はバラ色のように感じてしまうが、本当に遺伝子工学は我々の将来を保証してくれるのだろうか。そして神の逆鱗に触れる事なく、我々は生命を作り出し、我々自身が神になれるのだろうか。

★バイオ・ハザード
 以前は『種』というものを非常に重要視していたが、現在では全く種は無視され、代わりに『遺伝子』がそのお株を奪ってしまった。経済成長を即す為なら、種を無視してまで遺伝子を操作し、最大限に利益を上げようというのである。しかし、その場合、地球の生態系に対する悪影響などは何も考えていないのである。
 種の違いを無視して、遺伝子の組み替えを行なえば、地球の生態系は非常に危険な状態にさらされるのではないだろうか。むしろ現在地球の持っている生物資源は減少し、恐ろしいバイオ・ハザード(生物公害)が引き起こされるのではないだろうか。
 これまでの工業化社会は、その利便性と引き換えに多くの公害をもたらした。しかし、これらの公害も時間をかければ、まだ取り返しのつく種類の公害である。ところがバイオ・ハザードは、これまで人類が体験したどんな公害とも種類が違うものである。この公害は、“生きている”“成長する”“所かまわず繁殖する”のである。そして1度実験室を出てしまえば、2度と実験室には戻らないのである。
 仮に象のような牛や、数年で成長する木などが出来て、「どんなに生産速度を上げても生物資源は枯渇しない」という科学者の意見が実現しても、結局は工業化時代の時のように、バイオ・ハザードという形で膨大な量の生物廃棄物が生まれるのではなかろうか。そして、このバイオ・ハザードは、他の全ての生態系を破壊しかねないのである。
 もっと言えば、種の違いを超えて遺伝子を交換する事で、それぞれの種の遺伝子は汚染され、生態系全体の安定が崩れてしまったら、もはや取り返しのつかない事態となるのは明白である。ある生物の遺伝子に対し、他の異なる遺伝子を組み込み、遺伝子プールが汚染されたならば、そして、それが何百何千もの世代において続行されたならば、一体この公害の浄化にどのように対処すれば良いのだろうか、もはや絶望的なのではないだろうか。
 つまり、生物公害とは、全く取り返しのつかない公害であり、これを想像すると、工業化時代の公害など子供のたわごとのように感じてしまう程の大規模公害になるのである。

★スーパー・コーン
 1970年のアメリカにおいて、トウモロコシの遺伝子操作により『スーパー・コーン』が生まれた。この『スーパー・コーン』は当初大豊作となったが、ある種の病気に対しては、脆弱で全然抵抗力がなく、約2年後には全滅してしまった。
 このように、ある種の欠陥遺伝子を全面的に排除してしまうと、短期的には収益を上げても、長期的には、種の生存能力を弱めてしまうのである。
 生物というものは、様々な環境の変化に対応する為に、沢山の遺伝子を持っている。つまり、この遺伝子を取り上げてしまうというのは、その種に対して「絶滅しろ」と言っている事に等しいのである。例えば、人間が考えうる最も優秀な牛を遺伝子操作で作り出し、クローニングによって5千万頭に増やしたとする。ところが、この牛がある種の環境や病気に弱い事が分かった時には、5千万頭が一瞬にして全滅してしまうのである。
 もっとも『欠陥遺伝子』とは言っても、それはあくまでも人間の勝手な都合で決め付けただけであり、神や宇宙が初めから欠陥と考えて万物を造り出した訳ではない。ここにも人類の思い上がりの罪がひそんでいるのだが、人類が生態系を無視して遺伝子を操作する事は、膨大な量の生物公害を生み出し、種の遺伝子プールを汚染し、地球の繊細な生態系を破壊し、遺伝子の多様性を激減させてしまう事に通じ、遺伝子工学の未来はバラ色というよりも、全てがカタストロフィー(破局)へといざなう事になるのである。

★優生学
 遺伝子工学の最も暗い側面を語ってみよう。それはヒトに対する遺伝子操作である。
 先の女性キャスターを含み、マスコミは遺伝子操作について報道するにつれ、我々の倫理観が少しずつ変化している事をみなさんは感じているだろうか。遺伝子工学と深い関係にあるのが優生学であるが、私はこの言葉を聞くたびに胸が悪くなる気持ちを抑える事が出来ない。
 優生学とは、優秀な生物を作り出し、優秀ではない生物を排除するという学問的な研究な訳であるが、これを人体を使って実験しようとしたのが、かのナチスである。ナチスは大マジメに地上から『アーリア人種』以外の人種は根絶すべきだと信じていたのであるが、DNAの研究によって遺伝子操作が人間にも適用されるようになれば、我々はもっと理想的な子供を造る事を考え出すだろう。しかし、それは金髪碧眼のアーリア人種こそ理想と考えた、かつてのナチスを思い出さずにはいられないのである。
 しかし、ナチスの行なった優生学は政治的イデオロギーに染まっており、誰でも憎悪と恐怖を感じるであろうが、現在の遺伝子工学における優生学は、狡猾で巧妙なもので、我々の倫理観が少しずつ崩れ始めているのである。
 例えば、ある母親が子供を生む段階で子供の遺伝子プログラムを組み替えられる機会を与えられた時に、それを拒否したとしよう。ところが生まれてきた子供が遺伝的な病気を持っていて、その為に死亡してしまったら、我々は将来の子供の幸せを考えなかった母親というレッテルをこの母親に押し付けかねないのである。つまり、我々の倫理観はこのような段階を経て、巧妙に変化していく可能性が大きいのである。
 ところが、例えばガンのように重度の病気を取り除く為に遺伝子操作が認められても、それを他の障害に適用しない理由も考えられないのではないだろうか。例えば近視や脱毛、左利きといった事はどうだろうか。足の長さや肌の色といった事まで広げた場合、一体どんな社会が生まれるのだろうか。又、犯罪を犯した人や反社会的行動を持つ人間の遺伝子も危険だとばかりに排除されたならば、一体どうなるのであろうか。それは恐ろしく寂しい社会になるのではないだろうか。我々は健康や美貌といった理想の体を手に入れられる代わりに、我々自身が簡単にプログラム出来る人工的な『製品』に成り下がる事になるのではないだろうか。問題なのは、“誰が”“何を”欠陥遺伝子と決めるかである。
 つまり、遺伝子工学は絶えず我々に「完全な人間とは何か」という問いを求めてくるのであるが、誰でも分かるように完全な人間など存在せず、むしろ『欠陥』『異常』『病気』『危険』といったマイナスのイメージを持つ言葉が、完全な人間をイメージさせているだけなのである。
 そして、何度言っても言い足りないが、特定の遺伝子を排除する事は、遺伝子の多様性を無くすという事で、長期的に見て種の生存能力を弱めてしまう、つまり、その種に対して死刑宣告するようなものなのである。
 従って遺伝子操作にて、頭脳明晰な人や、スポーツ万能な人や、モデルのような美貌を持った人しかいない社会が生まれても、特定の環境や病気に対して抵抗力のある人がいない事で人類は絶滅といった事にもなりかねないのだ。つまり病気の人や、醜い人や、頭の悪い人や、反社会的な人も、種の存続の為、遺伝子の多様性の為に、種全体から見れば全て“必要な人”なのである。
 優生学ほど陳腐で茶番な学問はないと私は信じたいが、結局の所、遺伝子工学を研究する学者は、工業化時代の機械の技術者のように、人間を単に機械と同レベルでしか見ていないのである。機械という物は、欠陥があれば改善改良し、更に欠陥を求めて改善改良していく訳なのだが、これを人間やその他の生物に当てはめているだけなのが遺伝子工学であり、人類が進歩しているなどと考えるのは狂気の沙汰で、思い上がりにもほどがあると私は訴えたい。
 昔の賢者達は、美と醜、善と悪、有と無、難と易、長と短、高と低、などと言った相対的な物の価値基準は全て人間が勝手に決めた物であり、その関係は常に変動する事を知っていた。だからこれらにわずらわされる事もなかった。宇宙の法則を直感的に悟っていた昔の賢者達は、神秘的で霊妙な大自然を観察し、宇宙は万物を生み出しながらそれを支配する事なく、万物を成育させながら所有する事もなく、万物を成長させながら能力を誇示する事もなく、その功績を誇らないからこそ、その功績も不滅なのだと知っていた。
 欠陥遺伝子を取り除くなどとほざいている我々人間がいかに低レベルな思考しか持ち合わせていないかがよく分かるだろう。我々が宇宙を創造した神にかわれるなどと言うのは、厚かましいにもほどがあるのである。

★苦悩
 ここでは個人的な体験談に少々付き合ってもらいたい。
 私がまだ20歳前後の時に、私は友人宅に行こうと赤坂見附から丸の内線に乗った時の事である。車両はガラガラで、私の居た車両には、私と私の向かい側のサラリーマン風の男性の2人しか乗車していなかった。そこへ隣の車両から中年の女性と若い女性の2人がやってきて、中年の女性はサラリーマン風の男性の前に、そして若い女性は私の前に立ちはだかった。女性は私に対し、「あなたの幸せを祈りますので、一緒に目をつぶって手を合わせて下さい」と私に言ってきた。私がそれに従わないと、しつこく女性は嘆願してきたのだが、私はこんなガラガラの密閉された車内で、見ず知らずの人間の前で目をつぶったら、それこそ刺し殺されて何かを奪われかねないので、「私の幸せどころか、目をつぶる事で私を恐怖のどん底に落とすような行為を強要している事にも気付かないのか」と信じられない気持ちをこの女性に対して抱いた。それでもしつこく「手を合わせて下さい」と嘆願してくるので、私は懐疑心と共に「私の幸せとは何か?」と反対にこの女性に質問してみた。すると女性は「あなたの幸せとは、あなたが健康で悩みや苦しみがなくなる事です」と答えた。私は女性に対し、「私は健康でいなくても、悩み苦しんでいても、それを幸せと感じる事がある。そう言った意味においてお互いの価値観が相違しているのに、あなたの行為に便乗する事は出来ない」とキッパリ断わった。しばらくして中年の女性が向かい側の男性との“お祈り”を終えると、この人には何を言っても無駄とばかり若い女性を引き連れて、すごすごと私の前からこの女性達は去っていった。
 長い前ふりになってしまったが、私の宗教嫌いな理由と、宗教の茶番性がこの会話に凝縮していると思う。勿論、誰でも健康でありたいし、悩みや苦しみも少ない方がいいだろう。しかし、それを100%排除するなどという事は、あまりにも近視眼的で短絡的すぎる。
 ところが、宗教と違い、手を合わせなくても健康と長寿が手に入り、悩みや苦しみからも開放される方法を遺伝子工学は教えてくれるのである。しかし、もし遺伝子操作にて人間が勝手にイメージした『完全な人間』を設計製作し、健康と長寿を手に入れ、悩みも苦しみもなくなるのなら、一体そのツケはいくらになるのだろうか。人類は本当に悩み、苦しみ、虚弱、病気、といった人間体験を放棄してまで、人体の改良を望んでいるのだろうか。我々は本当に健康で悩みや苦しみの無い状態になる事を、人間性を放棄してまで望んでいるのだろうか。皮肉な事に我々は完全な人間を設計製作出来るようになって、初めてこの問題に気付いたのである。我々は遺伝子工学の技術の進歩に取り組むよりも、むしろこの問題に早急に取り組むべきではないだろうか。

★健康
 私は上記の女性に言った事とはウラハラに、とても健康には気を使っていると他人からは思われているかもしれない。
 確かに私は健康と長寿の為に良いとされている様々な知識に対する知的欲求が強く、こういった事に関する本も沢山読破したが、それぞれの健康法には必ず賛否両論があり、真実はつかみにくいものである。例えば、私は菜食主義者であるが、肉食肯定論者の人に言わせれば、私の食生活は健康に良くないと言うだろうし、菜食主義者は肉食肯定論者に対して同じ事を言うだろう。
 又、私は無農薬有機栽培の野菜や穀物を食べるようにしているが、本当に無農薬の野菜などある訳がないと親切に忠告してくれる人もいるし、チェルノブイリの原発事故により、日本の農産物も放射能汚染はされているので、本当に安全な食べ物など無いと言われればそれまでなのである。こうなると、食べて死ぬか、食べずに死ぬかと言う二者択一論になってしまうが、健康の為に安全で完璧な食品を食べるという事は不可能なのである。
 又、健康の為に運動しろともよく言われるが、都会でジョギングをすると、様々な有害物質を吸い込み、かえって健康に良くないとか、ひざや足首などの関節を痛めると忠告する人もいるし、健康の為に体を動かすというのも、どこまでが本当なのだかよく分からない。こうして私は様々な健康法を調べるにつれ、健康にもっとも悪い事は、“生きている事”だと結論づけた。
 我ながら、ここまでくれば、もはや達観といった感がするが、我々は“生きている”という奇跡に対して感謝する事が先決で、あらゆる人間体験を放棄してまで、健康と長寿を手に入れ、自らが遺伝子プログラムによって造り出された製品に成り下がるのはナンセンスなのではないだろうか。考えても見て欲しい、遺伝子操作によって、胎児の段階で人生設計がプログラムされたり、クローニングによって他人のコピーとしてこの世に生まれたならば、これほど寂しくつまらない人生はないのではなかろうか。
 なぜならば人生を生きるドキドキ感やワクワク感は、自分と同じ人間がこの世に居ないという事と、更にはその自分自身の事もよく分かっていない事に端を発するからである。
 我々は新しい技術を目の当たりにすると、すぐに進歩だと手放しに喜ぶが、過去の例を上げるまでもなく、よく中身を吟味すれば、それが単なるたわごとだと言う事がよく分かるのである。

★遺伝子工学の真理
 もし私が遺伝子工学を弁護するならば、種というものは遺伝子の多様性にて、種の生存能力を高めている事に遺伝子工学は気付かせてくれるのだから、この世に存在する生物、あるいは個人個人は全てにその存在理由や存在価値がある事を悟り、人が人を裁く茶番性や、個人主義の茶番性、優生学の欺瞞性に人類は早急に気付くべきなのではないだろうか。
 そして、『スーパー・コーン』の教訓をしっかりと胸に焼き付け、種の存続の為に「遺伝子は操作しない」とかたく決意すべきなのである。
 我々は容姿や人格など、人はなぜ全員がバラバラな個性を持って生まれてくるのか、長い間悩み続けてきた。個性がバラバラな事で歴史は戦争と殺戮を繰り返し、日常生活においても争いごとは絶えず、イジメによる犠牲者の例にも枚挙に暇が無い。
 指導者と呼ばれた人達は、この愚行を危惧し、自由、平等、博愛の言葉を大衆に常に訴えてきたが、これらの言葉はことごとく無視され続けてきた。むしろ、そのたびに指導者達は、なぜ神は賢者と愚者をこの世に生んだのかを嘆いたのである。
 おそらく大衆は、自由、平等、博愛と言った言葉に対し、理性的に理解できず、むしろ感情を逆撫でする事もあったのだろう。つまり、これらの標語には、指導者達の偽善や欺瞞を感じさせるところがあり、真理と言った感じが伝わらないのである。
 ところが、遺伝子工学はこの個性の多様性に対して、「種の存続」という極めて冷厳な真理を我々に提示してくれるのである。この真理を突きつけられると、我々は種の存続の為に全ての個性を否定できなくなり、そしてこれを理性的に理解できれば、我々は「隣人を愛せ」というキリストの教えを守る事が出来るのである。
 そして、日常生活において苦手な人や嫌いな人を迎え入れる事が出来れば、全ての人に対して愛と慈しみの精神を抱き、真の博愛主義を抱けるようになるのである。
 そして、これは茶番な個人主義の欺瞞性にも気付かせ、我々は常に種を単位として物を考えるようになり、全ての人との一体感、つまりは宇宙的スケールの愛に気付く事が出来るのである。
 権利意識が高い上に個人主義を抱く現代人には理解しがたい事かもしれないが、誰しもが経験しているように、友愛関係には自己の都合を抑えるという犠牲がつきものである。しかし、この自己犠牲の精神は、人類が宇宙の一員として生きる為に、我々1人1人が支払うべき当然の会費なのだ。具体的に言えば、母親は自分が飢えても我が子には食べ物を与えるというような事で、我々は種の存続の為に自己を犠牲にする精神を育む事が必要なのである。
 これまでの我々が、人種問題、差別問題、あるいはイジメの問題を考える時、差別する側は差別される側に対し、自由、平等、博愛、あるいは基本的人権を“与える”事で問題を解決しようとしてきたが、歴史を観察すれば、これらはことごとく失敗してきたという事に気付く。なぜならば差別される側は自尊心(プライド)が傷つき、差別する側の傲慢さがうきぼりにされ、むしろ問題の根を深くしたからである。ところが本当は差別する側が差別される側に対し適当な美辞麗句を“与える”のではなく、自己犠牲を“支払う”べきなのではないだろうか。
 現在の人権思想や個人主義とは、結局のところ「好き勝手にやりたい」という風にしか解釈されておらず、「他人に権利を与える」と言った目的は全く果たされていない。人間は他の国で何億人の人が死のうが、自分の生活の方が心配であり、他人が死ぬ事よりも自分の指を切り落とされる事の方が数百倍も苦痛なのである。我々は欠陥を内包した、たかだか200年の歴史しか持たない人権思想に終止符を打ち、300万年の歴史を誇る『人類』に戻ることで『種』を単位として物を考えるべきではないだろうか。
 我々はついつい技術の進歩という派手な部分に目を奪われがちになってしまうが、もし科学者が「真理の探究」を声高に叫ぶのなら、私は“種の存続”という真理にこそ目を向けるべきではないかと思うのである。

★無執着
 私の文章に対して懐疑の念を抱く人は、相変わらず人類の英知という言葉にぞっこん惚れ込んでいる人だと思われるが、御察しの通り私は科学技術に対して懐疑論者であるし、現代文明に対しても否定的な考えを抱いている。
 しかし、皆さんが私の事を単に社会に対して一方的な批判家であると判断されるのも心外なので、人生とは何かについても語っていこう。
 人類の文明史を観察したり、人間の発明や発見、それに伴う価値観や世界観を観察すると、その根底にあるのは不死への願望と、あらゆる動物の頂点に君臨したいという願望を垣間見る事が出決る。
 しかし、人間の人生においてこれらの願望は全く無駄である。我々が生まれた時から言われてきた事とは裏腹に、人類は夢も希望も持たず、生を喜ばず死を悲しまず、ただただ生きている事に感謝し、つつましやかに生きるべきなのである。そして人間の知識には限界がある事を知るべきで、これを老荘では「不知の知」と呼んでいる。
 何か刹那的、悲観的な響きがしないでもないが、地球に対して侵略してきた我々が今後すべき事は、まだ手付かずの自然に対して、そのままそっとしておく事であり、自然に対して畏敬の念を持って感謝する事なのである。そうすれば自然に対して優しさや保護の気持ちが生まれ、間違っても自然を操作しようなどとは考えなくなるだろう。その為には釈迦や老子が説いたように、生に対する執着を捨て、自然と共存する道を選ぶ事である。
 私はこれまでの西洋文明のような積極的な生き方よりも、むしろ消極的な生き方をする事で自身のアイディンティティーを示した東洋の賢者達の生き方にとても共感を覚えるのである。以下に私が中学生の時に父から教わった言葉を記したい。


事は無為を以て事と為し、相は無想を以て相と為す。
何ぞ名相として称すべきことあらん。
(聖徳太子)


 この言葉の無為とは、まず行動における無執着を意味していると私は父から教えられた。我々は生に執着するが、それが転じて自尊心や虚栄心を作り出し、権力、経済力、名声といったものに心を奪われ、逆に自らの不幸を招いてしまうのである。もし人間が生に執着せず、死を恐れずに生きていくならば、つまらない進歩思想に対する執着心や、人類の英知などと言ったたわごとには一切関心がなくなるであろう。
 老子の学問では、才能を隠し、無名である事を旨としているが、現代人にとって、この静的で、積極的であるよりかは消極的であろうとし、強者であるよりかは弱者であろうとする東洋の思想は理解しがたい物であるかもしれない。しかし東洋思想は物質的満足感よりも、ただただ精神性の向上に努めるという点では、現代人にとって最も必要な思想だと私は考えている。
 世界でもっとも速く歩く日本人の都市生活者は、立ち止まる事に慣れていないが、「なぜ立ち止まらずに前へ進むのか」を考えるヒマもないようだ。しかし、現代人はあえて立ち止まり、一体どこまで行けば自分は満足するのかを自問自答するべきである。そうすれば、皮肉な事に前へ進むからこそ満足も逃げていく事に気付くだろう。
 人間の普遍的な永久の満足感とは、「足るを知る」という事である。ただただ足るを知る事が永久の満足であり、全ての人が足るを知る事が出来れば、世の中は平和になるのである。そして平和こそが本当の人間の希望なのではなかろうか。
 現代人には、この「足るを知る」と言う言葉は、清貧の思想のように感じるかもしれないが、貧富の差に関係なく、現在の生活に満足できるようになると、不思議と“生きている”事の奇跡に感動する事が出来るものである。
 昔の人が言っていた、「足るを知る者は富む」という言葉は本当なのである。
 現代人は物質的にとても豊な感じがするが、人類史上もっとも貧しい世代なのではなかろうか。それは足るを知らず、前へ進もうとするからである。
 人類は「神になる」などと言った子供のたわごとにも及ばないセリフを吐くよりも、まずは人間性を回復する方が格段に幸せになれるだろう。
 私が科学者の吐く美辞麗句を聞いていつも感じるのは、その根底にあるものは謙虚さではなく虚勢だという事である。我々は遺伝子を操作して完全な人間や神を気取るよりも、謙虚さを取り戻した方がこの宇宙から“完全な人間”として迎え入れられ、大自然から歓迎されるのではないだろうか。人間の持つ、うぬぼれ、ひとりよがり、尊大、自画自賛といったものは、大自然から見ればただの迷惑である。




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