Erv's Letters index Text by Erv Yamaguchi


ダーウィン 2008年2月23日 19:28

 CB400SFの新車価格が80万円という昨今、2輪業界の関係者達は、新車が売れないという悲鳴にも似た叫びを上げている。また、経済が好調なロシアへの輸出屋が暗躍している為、中古車の仕入相場もハネ上がり、中古車販売店も利幅を減らしている。そして、こうしたロープー(商売人)の世界と呼応するかのように、バイクブログ界も、狭い世界の慣れ合いという沈滞ムードに襲われているが、国内のバイク界に提供すべき明るい話題は今のところ、無い。

 また、『サイクルサウンズ』誌が廃刊になった時、本人達は“休刊”だと語っていたが、1年後には出版していた山海堂が17億円の負債を抱えて倒産してしまったので、復活劇への道は永遠に閉ざされた。ちなみに、雑誌の世界は、クルマの方でも不況のようで、生き残るクルマ雑誌は3誌くらいになるだろうとも言われているが、国内2輪専門誌はどの程度生き残ることが出来るのだろうか? ちなみに、現在の国内2輪専門誌は、全部で約60誌が発行されている。バカげている。私が思うに、メーカーはもう誰も読んでいない国内2輪専門誌に広告を出すのをやめて、国内2輪専門誌の息の根をとめた方が良いのではないか? そうすれば、広告費という上乗せがなくなることで、CB400SFも常識的な50万円程度まで値段を下げることができ、そうすればおのずと国内市場にも活気が戻ってくるのではないだろうか? また、本当に雑誌がなくなれば、バイク乗り達はよりネットでの情報収集に精を出す為、バイクブログ界も活況を呈すのではないだろうか? そしてまた、労働基準法の存在を知らないバカげた編集長から解放された編集部員達も、まともな8時間労働の仕事に転職でき、彼らが人間的な生活を取り戻すことで、まともな給料と余暇時間を手にすれば、彼らも現在と違ってバイクのことが好きになるのではないだろうか?(バイクのことが好きな人間があんなに退屈なページレイアウトに出来るハズはない) つまり、メーカーが雑誌に広告を出さないと英断すれば、全てが丸く収まると私は思うのだが、こうした私の考えは、今のところ異端として扱われている。

 しかし、国内の沈滞ムードをあざ笑うかのように、メーカー自体は実はウハウハで儲けている。否、大儲けしている。
 特にホンダとヤマハなどは、タイやインドやインドネシアなどのアジアのエマージング・マーケット(新興市場)にて100〜150ccのバイクを金太郎アメのように現地生産及び販売して大儲けしている。
 そして、更に言えば、CB400SFの新車価格が80万円である事実に対して私が思うに、すでにメーカーは国内市場から撤退したいのではないかとも感じられてしまう。つまり、縮小している市場においては、サポートをどんどん減らし、思い切って価格を引き上げ、シェアの低下に任せて放っておけば、売上が減っていく間も儲かって笑いが止まらない訳だ。なんとか日本のマーケットに食い込みたいという意地も垣間見える、675ccのイギリス製バイクであるトライアンフのストリートトリプルが100万円を切っているというのに、ホンダが400ccのバイクの新車価格を80万円に設定しているのは、国内市場はシェアの低下で儲けると共に、ドル箱市場はエマージング・マーケットにシフトしているという証しなのではないだろうか? 本当の所はよく分からないが、ひとつ言えることは、日本のバイクメーカーは、儲かる場所で儲けるべくグローバル化したということである。そして、そこに崇高な理念などなく、あるのは市場原理主義だけだということである。

 しかしメーカーは、こうした世界戦略に対してケチがつかないように、広告費という名の口止め料を永続的に支払い、そのツケは“ふし穴”という名称の両眼を持つ消費者が補っている。

★反グローバリズム主義
 バイク乗りが多く集まるサイトだけに、バイクがらみのネタを“つかみ”にしてしまったことをお許し願いたい。
 では本題に入ろう。
 最初に結論。(略)私は反グローバリズム主義者である。それどころか、反資本主義、反ネオリベラリズム(反新自由主義)、反ネオコンサバティブ(反新保守主義)である。つまり、まんま左翼である。死刑制度反対(笑)非武装中立(笑)護憲(笑)共産党(笑)社民党(笑)左翼(笑)スイーツ(笑)である。
 しかし、左とか右と言った表現は、元々はフランスの議会の席の位置が語源のようで、国によっても意味が変わってしまうようだし、元々は思想を表した表現ではないこととあわせて、私自身は自分を左翼だとは思っていないので、ネットウヨさん達から、あまりありがたくないメールとかを頂かないように、私自身は“プログレッシヴ”だと紹介しておこう。えっ? 何々? プログレッシブって、サスペンションの特性のことかって? いや、それとは意味が違うので、“ブ”を“ヴ”と表記させて頂くよ。

 だいぶ話が脱線してしまったが、路線変更宣言にて私は、世の中の不公平な格差が生まれているのは、競争が賛美されているからだと述べた。そして、将来の展望にて私は、現代社会を競争社会にしてしまった人物は、ベーコン、デカルト、ニュートン、ロック、スミス、ダーウィンだと語った。特に、競争社会を肯定したのがダーウィンだと強調していたので、次にはダーウィンについて語ってみるとしよう。

★ダーウィン
 簡単に言うと、ダーウィンの提唱した進化論や自然淘汰論は、市場原理主義やネオリベラリズム(新自由主義)というイデオロギーに何度も何度も繰り返し利用されてきた。
 これに対して、多くの人、というか全ての人は、ダーウィンの提唱したロジック(論理)は、純粋なる科学であり、ダーウィンのロジック自体は真実であると考えてきた。つまり、ダーウィン自体は、フツーの科学者として自然界を観察して自分のロジックを発見しだだけであり、イデオロギーがそれを利用しただけという訳である。本当にそうなのだろうか?
 ダーウィンが生きた時代について調べてみよう。ダーウィンが生きた時代は、ちょうどイギリスが封建社会から資本主義社会へと変貌を遂げる最中だった。つまり、イギリスが世界に先駆けて、産業革命を取り入れようとしている真っ只中であり、イギリスは、この社会の変貌を正当化するもっともらしい理論を欲していた。
 そして、実際にイギリスは素朴な農業国から煙突だらけの国に変貌した訳だが、19世紀前半、自然淘汰論を支持した人達は、ほとんどがイギリス人だった。もし科学に国境がないのであれば、これは少々おかしい話ではないだろうか? こうして、現在の生物学者達も、進化論が資本主義が台頭した時期、それも、それが最も強烈に現われたイギリスで生まれた点に注目したが、歴史学者もまた、牛肉と闘争を愛した当時のイギリス人の気質とあわせて考え、ダーウィンが自然界を観察して、自然界を闘争や競争といった観念で捉えたとしても不思議ではないと考えた。また、精神医学医は、ダーウィンは自分の姿を自然という名の鏡に映し出して見る1人のブルジョアに過ぎないとも言いだした。こうした興味深い分析は、まだまだ小学校の教科書には登場しそうにもないが、あらゆる分野の学者達は、ダーウィンは当時の社会のイメージで自然界を分析したことに対して、もうほとんど疑う余地はないと考えだしている。

★劣等感から生まれたロジック
 ダーウィンが残したメモや日記、そして本などを調べると、間違いなく次の結論に達するという。つまり、ダーウィンは自然の中にイギリス社会を見、そこから選び出したイメージを自然界に当てはめた、というストーリーである。そして、以前記述したように、当時のイギリスの支配層は、ダーウィンの説を歓迎するあまり、ダーウィン自身を観察することを怠ってしまったが、現代の学者達は、ダーウィン自身を調べることにすでに着手している。

 ダーウィンは、安定した財産を持つ中産階級の家に生まれ、生活には何の不自由なく育った。そして、皮肉なことに、生存競争という理論を生み出したダーウィン自身は、生まれながらにして病弱で、死ぬまで疲労と病気に苦しんでいたようである。
 そんなダーウィンは、病弱な自分自身について、「強者が勝つという結論を受け入れるのは、私自身まったくつらいことだ」と述べている。そして、こうしたダーウィンの残した言葉は、生物学者よりも、むしろ心理学者の興味を引くテーマとなった。
 ダーウィンは、厳しい生存競争が繰り広げられていた当時のイギリス社会にて、実は自分自身は全く働くことがなかった。そう、彼は生存競争などに関わらなくても、父親の遺産だけで十分に生きていくことが可能だったのである。しかし、このことがダーウィンの劣等感を助長したようだ。つまり、彼自身は生きていく為に働く必要がないことに対して、うしろめたさを感じていたのである。そして、働くことで生計を立てることが出来ない自分は、社会における不適格者だと位置づけていたようだ。
 こんなオッサンが、自然淘汰論や適者生存の理論を確立したとは驚きだが、逆説的に言えば、こうした劣等感を持つ人間だからこそ、このような理論を確立したとも言える。そう、人間の世界観とは、自分の持つ最も強い潜在願望の表れだとも言えるからである。(まるで非モテや非コミュのライダー達が、自分自身を社会に対する不適格者だと認めながらも、競争心をむき出しにしたロードレースは肯定している様にも似ている)
 そしてダーウィンは、劣等感をベースにした自分の理論を確立する為に、マルサスの理論をパクることに成功した。

★ベースは人口論
 マルサスは、村を捨てて町にやってきた労働者達や、激しい自由競争により生み出される増える一方の貧困者を観察して、1796年に『人口論』という本を出版した。
 難しく書くと、マルサスの人口論とは、食糧生産の増加は算術級数的だが、人口増加は幾何級数的というものだが、分かりやすく書くと、人口の増加に対して、食料の増加は常に不足するというものである。
 そして、この食糧不足を緩和する為に、餓えや貧困、悪や犯罪、疫病や飢饉、革命や戦争が起きることで人口調整が行われるという訳である。
 つまり、要約すると、生存競争により強者が生き残り、弱者は滅びる宿命にあるという訳だ。そしてマルサスは、これは神の摂理だと説明した。

 もちろん、当時を生きるイギリスのブルジョア階級は、この理論に飛びついた。彼らは活発に経済活動を続けていたので、政府が経済に介入することを好まなかった。有能な自分達は生き残り、怠惰な者はふるいにかけられるべきだと考えていたからである。
 しかし、飛び付いたのはブルジョア階級だけでなく、ダーウィンもこの理論にすぐさま飛び付き、『人口論』を自分の論理に取り入れた。
 イギリスの論理学者のバートランド・ラッセルは、ダーウィンは本質的には、自由放任主義的経済と、マルサスの『人口論』で動物・植物界を説明しただけだと後に語っているが、こうしてダーウィンの説は、科学的な真理から、最近では経済学で生物界を解釈したものに毛が生えた程度の論理に成り下がった。しかし、この稚拙な論理を世の中に広めた人間は、他ならぬ政治家であり、競争と権力を重要視したダーウィンの理論は、国家主義、帝国主義、軍国主義、独裁主義、そして英雄や超人待望論者にまで歓迎された。

★偏向していた論理
 冷静に自然界を観察してみよう。
 自然界には、ダーウィンが唱える生存競争も確かに存在する。しかし、それだけで自然界の全てを説明したというのは思い上がりである。
 つまり、これまでのダーウィンの説は、事実の一部を誇張して拡大解釈してしまったものである。そう、自然界においては、自分達が生き残る為に、攻撃的な生き物が現われたことも事実である。しかし、それと同時に、守りによって生存を確保しようとした生物も増えたのである。攻撃を加える者もいれば、相互扶助を試みる者もいたのだ。生きる闘いには、必ずしも競争がつきものとは限らない。攻撃だけが生きる方法ではなく、集団で安全を確保する生物も存在するのである。

 こうして考えると、資本主義を人間社会に取り入れた当時のイギリス人達の勝手な思い込みにより、人間社会はあたかも強い者だけが生き残るリングの上といったイメージが強くなってしまったが、狭いリングの上同様、このイメージは視野狭窄だと言わざるを得ない。
 そろそろ我々は、ここ200年の歴史が、人類の自己欺瞞を書き綴ったものに過ぎないことを理解し、競争社会にピリオドを打っても良いのではないだろうか? そして、強者だけが生き残り、弱者を切り捨てる政治家をセレクトするのをやめ、社会民主主義を唱える政治家を選択すべきではないだろうか? そう、ヨーロッパや南米やアフリカのように、アメリカの欺瞞性に気付いた国々のごとく。

 こうして私は、世界のトレンドを嗅ぎわけることで、反資本主義者となり、社会民主主義者となった。しかし、以前にも記述したが、私を含めて現代人は、すでに社会主義を知らないので、庶民寄りな政策や、弱者救済措置が、そのままイコール左翼というバイアスはないようである。
 ところが、若い世代の中で、特にインターネットの住人は、中国や韓国そのものへの嫌悪というよりは、中韓に優しいように見えるマスコミの正論に反発することで連帯感を共有したり、気にくわない言説への攻撃に精を出すことで、不思議なナショナリズムを抱き右傾化及び保守化している。彼らはきれいごとを極端に嫌う傾向もあるので、俗に言う左翼を忌み嫌っている。
 しかし、こうした若者達を弱者として政治家達がバサバサと切り捨てていけば、彼らもその内青ざめてくることだろう。

 世界的に見れば、レーガン、サッチャー、中曽根という、国民に給食費を払わせることが大好きな人達がネオリベラリズム(新自由主義)を広め、世界の格差を作った根源的な悪で、我が国で言えば、中曽根、小泉、安倍というラインが弱者切り捨て路線である訳だが、社会民主主義者の定義で言うところの強者、つまりはトヨタ、キヤノンなどの経団連を中心とした大企業、そして、大昔に日本の軍部と協調して中国侵略をしていて、戦後のGHQからファシズム政権に協力したとして、公職追放指定会社になったという伝統を持つ、新聞・テレビ・ラジオを牛耳っている電通が、電通の社員がCM制作のノウハウを使って開発した小泉純一郎の“ワンフレーズ・ポリティクス”などを使って世論と大衆を操作することで、投票行動による議会制民主主義が、政治ではなく“政治ショー”になっている為、東京では石原、宮崎では東国原、大阪では橋下と、国民をどうしても徴兵したがっている知事レベルでもネオリベラリズム(新自由主義)路線が台頭しているが、電通の力により民度が下がり、投票行動では世の中が変わらないという歯がゆいジレンマを味わいながら、このままアメリカ従属で日本の中間層はいなくなり、少ない金持ちと多くの貧者に世の中が2分すれば、日本経済は2輪業界同様、益々悪化していくことだろう。

 幸いにして、インターネットの出現で、“口約束”などの古い慣習が巣食う広告業界にて、しっかりと契約書を交わすネット広告が台頭し、相対的に新聞・テレビ・ラジオの利益や影響力が減じてきているので、これを機会にインターネットの住人の方達は、ネオリベラリズム(新自由主義)の欺瞞性に気付いて頂ければ幸いである。


 95年から2006年までの1人当たりGDP伸び率と、平等性を測る指数であるジニ係数との相関を調べると、興味深い事実が浮かび上がる。GDPの高い伸びを示しているのは、むしろ所得の平等性が高い国々(ジニ係数の低い国)が多いのだ。少なくとも、ここからは成長と平等がトレードオフの関係にあるとはいえない。やはり、健全な中間層の存在こそが、経済社会を成立させる前提ではないのか。

(週刊 「東洋経済」 2008年1月12日号掲載 "特集/「北欧」はここまでやる" より)




www.romc.jp www.maderv.com www.bugbro.com www.bugbromeet.com